皆様こんばんは、5月より鶴見本店に異動しました永瀬です。
とうとう梅雨も明けましたが、依然として湿度が高く蒸し暑いのでジントニックやモヒート等がより一層美味しく感じる日が続きますね。皆様は今宵の一杯目は何をお飲みになっているでしょうか。

さて、話は変わりますが皆様は夢中になったアーティストは居るでしょうか。
私は、20代前半の時に音楽にのめり込み(と言っても聴く専門でしたが…笑)、色々なジャンルを浅く広く聴き漁りました。
その中でも近年、伝記映画化したアーティストを紹介したいと思います。

「フレディ・マーキュリー」
イギリスのロックバンド「クイーン」のボーカリストとして活動していたアーティスト。
ポピュラー・ミュージックの歴史の中でもっとも偉大なシンガーの一人とされており、「ボヘミアン・ラプソディ」や「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を作詞・作曲した。1991年11月24日、HIV感染症によるAIDSを発症のため死去。45歳没。
フレディの死が、クイーンの人気をさらに高めたともいわれており、1980年代にクイーンが遅れて人気となったアメリカでは、彼の死後の1992年に、アルバム販売数が劇的に増えた。現在までの世界中の記録的な売り上げは、3億枚と高く見積もられている。また、クイーンの「グレイテスト・ヒッツ」は、イギリスで史上最も売れたアルバムだそう。
1985年のライブエイド(アフリカ難民救済を目的としたチャリティーコンサート)では、全出演陣の中でも最多となる6曲を披露し、ライブパフォーマンスで他を圧倒した様を2018年の伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ」で細部に至るまで忠実に再現されたそうです。
この映画が、私個人の伝記映画に興味を持ったきっかけになりました。

「エルヴィス・プレスリー」
1950年代にロック・アンド・ロール(ロックンロール) の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされており、全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている。
1977年8月16日、寝室のトイレの床に倒れているプレスリーが発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師により午後3時30分に死亡が確認された。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。
初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウエスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。そのため白人社会の当時は凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年の飛行の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」(プレスリーのトレードマーク的なダンス)も問題となり、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。
そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思ってないさ。自分を表現する方法なんだ」「俺は人々に悪影響を与えてるとは思わない。もしそう思ったら、俺はトラック運転手に戻るよ。本気でそう思ってるんだ」と答えている。
プレスリーの記録は多数あり、例えば最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。
2022年に公開された伝記映画「エルヴィス」には、エルヴィス・プレスリーの波瀾万丈な人生が描かれています。
個人的な印象は、ロックンロールという印象の中、「ラブ・ミー・テンダー」という優しい曲が非常に印象的でした。

「ボブ・マーリー」
ジャマイカのシンガーソングライター、ミュージシャンでレゲエの先駆者の一人であり、スカの時代から活躍しロックステディ、レゲエの時代まで音楽界を駆け抜けた。また洗練された歌声と宗教的・社会的な歌詞、曲で知られた。
1981年5月11日マーリーは妻と母に見守られながら息を引き取った。息子・ジギーへの最後の言葉は、「お金は命を買えない」だったという。マーリーの最終的な死因は、脳腫瘍と腫瘍の肺への転移によるものとされている。36歳没。
マーリーは60年代から80年代初頭までレゲエ音楽とカウンターカルチャーの活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。マーリーはラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルともみなされた。
音楽ソフトの推定売上枚数は世界中で7,500万枚を超え、マーリーの音楽と思想は後進のミュージシャンなどに影響を与えた。
1975年に、スティービー・ワンダーのジャマイカ盲人協会のための慈善コンサートに出演しており、それ以来自分たちでも無料のコンサートを開催したいと考えていた。そこでPNPに協力を呼びかけ、1976年12月5日に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することを計画した。コンサートのために「Smile Jamaica」というタイトルの曲を二種類のバージョンで録音している。このマーリーのコンサートの趣旨は、「二大政党の対立により混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」というものだった。しかし、コンサートが近づくにつれ、匿名の警告や脅迫が相次いだ。

1976年12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、マーリーも胸と腕を撃たれた。重傷の者もいたものの、幸い死者は出なかった。二日後、コンサートに出演したマーリーは約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開く事を二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった。演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけその場を去った。翌日早朝、マーリーはジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪くさせようとしてる奴らは休みなんか取っちゃいない。それなのに僕が休むなんて事ができるかい?」と語った。

その後、1977年にロンドンでアルバムを2枚分レコーディングし、「エクソダス」を発表。ブルース、ソウル、ブリティッシュ・ロックなどの要素を取り入れたマーリーのこのアルバムは、56週間連続してイギリスのチャートに留まった。

1978年、ジャマイカに帰国し4月22日にキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演するし、演奏中、マーリーはコンサートを見に来ていた二大政党党首、マイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。

2003年ににはRolling Stone誌の史上最高の500アルバムのランキングで46位にランクイン、2012年の改訂リストでも評価を維持した。2020年1月現在、ビルボード 200アルバムチャートで合計609週間チャートイン。これは歴史上2番目に長い記録である。
2024年5月公開の伝記映画「ボブ•マーリー ONE LOVE」は、マーリーの人生と「スマイル・ジャマイカ・コンサート」と「ワン•ラブ・ピース・コンサート」に焦点を当てています。

この他にも色々なアーティストの伝記映画があると思いますが、観たことがある方もない方も、それぞれ気になった伝記映画を探してみるのも楽しめるかもしれません。
酒のツマミにそう言ったお話も、乙な物ですよね。
長々と文を書いてしまいましたが、また今宵もお店でお待ちしております。
※暑い時期ですので、皆様しっかり水分補給して熱中症予防を下さいね(笑)