時代屋本店をご贔屓下さっている、プーのクマさんの声をお伝えします。

(公開:2003/7/1)


 村上春樹の処女作『風の歌を聴け』は、「ジェイズ・バー」というバーが作品の中
心舞台になっている。主人公の「僕」ともう一人の主人公「鼠」は、このジェイズ・
バーで、ひと夏の間浴びるようにビールを飲み続ける。次のような具合だ。

 一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯
分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さに
ピーナツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくら
い退屈な夏であった。

 時代屋に初めて行き、それからちょくちょく通うになってから僕は、自分にもこの
ジェイズ・バーができたみたいですごく嬉しかった。ただ、時代屋とジェイズ・バー
とではずいぶんと店の雰囲気がちがう。『風の歌を聴け』で、ジェイズ・バーは次の
ように描かれている。

 もっとも、まわりには鼠の大声を気にするものなど誰ひとりいなかった。狭い店は
客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあっていたからだ。
それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった。

また、次のようにも。

 僕は「ジェイズ・バー」の重い扉をいつものように背中で押し開けてから、エア・
コンのひんやりとした空気を吸いこんだ。店の中には煙草とウィスキーとフライド・
ポテトと腋の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀ん
でいる。

 僕には時代屋が「沈没寸前の客船」に見えたことは今まで一度もないし、それに時
代屋の扉は重くない。簡単に開く。また、腋の下とか下水の匂いがしたことなど当然
ない。そもそも僕は時代屋で不快な思いを味わったことが一度もない(いや、呑み過
ぎて気持ち悪くなったことは何度もあるけど)。たいていの場合は静かで落ち着いた
雰囲気で、週末などで混み合ってるときでも決して乱痴気騒ぎにはならない。そこに
はいつも、美味い酒があり、ずいぶんと話の分かるバーテン諸君がい、品の良いジャ
ズ(ときどき「オイ、これほんとにジャズなのかよ」みたいのがかかることもある)
が流れ、ほど良くオープンでほど良くオトナな常連さんたちが呑んでいて、すごく居
心地の良い、穏やかで幸福感に充ちた空間が広がっている。
 そういえば僕はときどき、時代屋は教会みたいだと思う。時代屋が教会であるな
ら、そこにいるバーテン諸君は神父ということになる。僕らは、最近あった良いこと
イヤなこと、つらい出来事うれしい出来事、犯した過ち、傷つけられた想い出、それら
のことをあたかも懺悔・告白するかのように、酔いにまかせこの神父たちに語る。い
や、べつにバーテンでなくても良い、一緒に行った連れでも顔馴染みの常連さんでも
良い。語ればそこで、慰め、励まし、ときに、たしなめ、諫めの言葉がかけられる。
また、バーテンがカクテルを振るとき、それはまるで神父が十字架を切るようであ
り、そのカクテルが目の前に置かれたグラスに注がれるとき、それは赦しを乞うて跪
く信徒に神父が手をかざすようにも見える。カウンターの前に並べられた数百種の酒
がセピア色の輝きを放つのは、まるで教会のステンドグラスのようだ。
 やがて、僕は潮時を見てこの教会から去る。店を去るときはいつも、癒されたよう
な、赦されたような、幸せな気持ちになっている。もちろんその気持ちは、酒のなさ
せるワザであり、幻想でありまやかしであるのにちがいない。店に入る前と出た後
で、周りにある現実は何一つ変わっていない。変化といえば、シラフだったのが酔っ
ぱらっているのと、財布の中身が少し減っていることぐらいだ。だけど僕らはその幻
想を求めて、時代屋へと足繁く通う。ここに来れば幻想を夢見られる、その安堵感に
も似た想いが、きっと、やがて僕らの現実に変化を与えてくれるのだ。ジョン・レノ
ンみたいなことを言うようだけど、現実は変えられなくても自分の心は変えられる。
自分の心が変われば、やがて現実が変わる。
 そうして幻想を求めて集う人たちひとりひとりに、それぞれの想いがあり生き方が
あり出会いがあり、物語がある。時代屋では、そうした想いや出会いや物語が様々に
交錯し、また新たな物語が紡がれる。

 村上春樹の『風の歌を聴け』では、一つの恋の話が、作品の一つの中心を為してい
る。「僕」と、左手小指のない女の子との恋の話だ。その出会いの場が、ジェイズ・
バーである。そこで出会った彼らはやがて恋に落ちるが、夏の終わりとともに別れの
時が訪れる。「僕」は、その町を去り東京へと戻っていく。

 僕も、時代屋がその舞台の中心になっているような、一つの恋をした。『風の歌を
聴け』に描かれているような、ドライでありながらセンチメンタルな、そして洗練さ
れた恋愛ではなかった。それは、ひどく稚拙で不器用で、情けない恋だった。だけ
ど、結末が決してハッピーエンドではない点だけ、『風の歌を聴け』の恋と共通して
いる。

 『風の歌を聴け』は、エピローグ前、次のようにして一度閉じられる。

 あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
 僕たちはそんな風にして生きている。

 僕はきっと、これからも時代屋のカウンターで、すぎていく風の歌を聴き続けてい
くことだろう。
 いつか、時代屋を舞台にした小説でも書けたらなあ、と思う。


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